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勝手にピッチャー交代してしまった
金田正一投手



昭和を代表する投手として、あまりにも有名な金田正一投手。プロ通算400勝、4490奪三振など、日本のプロ野球界の金字塔とも言える数々の日本記録を打ち立てました。類まれなる才能はもちろんのこと、金田選手の野球への熱い情熱は、大記録とともに、後世まで語り継がれるような数々の伝説も生み出しています。

ハチャメチャ投手が示した、大投手の片鱗

ハチャメチャ投手が示した、大投手の片鱗

今でこそ伝説のピッチャーと言われる金田投手の野球人生は、ハチャメチャからのスタートでした。よく喧嘩をしていた相手に、そのスタミナを見込まれ、高校1年生のときに野球の強豪校・享栄商業高校に転校し、野球部に入部。指導した監督から徹底した走り込みを教えられ、後に原点と語る「スタミナと体づくり」を学びます。金田投手はコントロールに難があったものの、端々に見せる伸びのあるストレートと鋭い縦のカーブを武器に、エースピッチャーとして甲子園制覇を目指します。しかし、1950年高校3年の夏、予選で敗退し、甲子園の夢は絶たれてしまいます。

高校を中退し、プロの世界へ

高校を中退し、プロの世界へ

甲子園の夢が叶わなかった金田投手は、家庭の経済状況を考えて「野球で金を稼ぐ」と決意し、国鉄スワローズと契約し、そのまま高校を中退して入団してしまうのでした。シーズン途中、8月からの登板にも関わらず、金田投手は1年目で8勝を挙げます。さらに、2年目のシーズンには22勝を挙げ、ノーヒットノーランも達成してしまうのです。課題だった制球難も20代になる頃には克服し、安定した投球内容で毎年20勝以上を積み重ねていきました。1957年には、プロ8年目にして初の最多勝と最優秀防御率のタイトルも獲得し、完全試合も達成します。金田投手が打ち立てた大記録は、当時弱小球団だったスワローズで成し遂げたことで、さらに評価を高めています。

金田投手が見せた、勝利へのこだわり

金田投手が見せた、勝利へのこだわり

金田投手は、スワローズ入団2年目から13年連続で20勝を挙げています。しかし、1960年のシーズンは、終了間際の9月29日時点で19勝しか挙げていませんでした。そんななか迎えた9月30日の中日ドラゴンズ戦。スワローズは島谷勇雄投手が先発し、4回の時点で2点をリードしていました。20勝目を挙げるためにも、当然自分の出番が巡ってくると思っていた金田投手は、ブルペンでの投球練習を終えて登板の準備をしていました。しかし、国鉄ベンチは、島谷投手の続投を決めます。その時、金田投手はボールを叩きつけて怒ったと言います。そして、島谷投手がノーアウト三塁のピンチを招いた5回、ついに伝説が生まれるのでした。

監督も仰天! 勝手にピッチャー交代

監督も仰天! 勝手にピッチャー交代

ピンチを招いているにも関わらず、全く動こうとしないベンチにしびれを切らした金田投手は、何と自らマウンドに向かい島谷投手を降板させてしまったのです。もちろん、監督はピッチャーの交代を告げていません。金田投手は、マウンドに向かう途中で審判に「わし、投げるから」と声をかけて行ったのです。結局、そのままマウンドに上がった金田投手は、5回のピンチを抑えると、そのまま試合を投げきりシーズン20勝目を獲得したのでした。ちなみに、その試合で先発していた島谷選手は、プロ野球生活で1勝も挙げること無く引退したそうです。今では考えられない監督への抗議行動ですが、これも金田投手の野球に対する熱い情熱の表れだったのかもしれません。