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100m走日本記録でプロ野球入団?



「試合数117、打数0、安打0、犠打0、犠飛0、四死球0、三振0、打率0.000」、そして、「得点46、盗塁23、盗塁死17」という、不思議な公式試合記録を残したプロ野球選手がいます。選手の名前は飯島秀雄。彼は、一度も打席に立たず、守備も全くしなかったプロ野球選手でした。

100m走のスーパースター

100m走のスーパースター

飯島秀雄選手は、もともと短距離走選手でした。それも、オリンピックに出場するほどの俊足を持っていました。1944年1月1日、茨城県水戸市に生まれ、中学時代に野球部に所属するものの、足の速さを評価されて、陸上短距離に転向します。高校3年生のときには、すでに100mを10秒台前半で駆け抜ける実力を持ち、関東屈指のスプリンターとなっていました。高校卒業後は早稲田大学に進学し、さらに練習を重ね、1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会の100m走で10秒1を記録し、当時の日本記録を更新したのです。1964年には東京オリンピック、1968年にはメキシコオリンピックにも出場し、準決勝まで進出した、日本の短距離走のスーパースターだったのです。

短距離走選手からプロ野球選手へ

短距離走選手からプロ野球選手へ

早稲田大学卒業後は、茨城県庁で働きながら陸上競技を続け、オリンピックにも出場していた飯島選手。ところが、メキシコオリンピック後の1968年12月、東京オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)がドラフト9位で指名し、プロ野球選手に転向したのです。現役の陸上選手で100mの記録保持者が、突然プロ野球へ転向したことは大きな話題となりました。野球は素人同然だった飯島選手は、代走専門の選手として、獲得されたのでした。

飯島選手を口説いたのは、当時のオリオンズの永田雅一オーナーでした。永田オーナーは話題づくりのため、飯島秀雄の足に5000万円の保険をかけた上に、当時の盗塁記録「85」を上回るようにと、背番号を「88」と決め、マスコミの注目を一挙に集めます。この効果は絶大で、公式試合でのデビュー戦には例年の4倍もの観客が球場に駆けつけました。

初公式戦、初盗塁でサヨナラ勝ち

初公式戦、初盗塁でサヨナラ勝ち

飯島選手のプロ野球公式戦デビューは、1969年4月13日、対南海ホークス戦でした。3対3で迎えた9回裏無死1塁という、サヨナラ勝ちが期待される場面で飯島選手が代走で出場します。南海ホークスのキャッチャーは、後に監督としても活躍する名捕手の野村克也選手で、飯島選手といえども、簡単には盗塁できないだろうと思われていました。ところが、飯島選手は大方の予想を裏切り、初球から盗塁を決め、守備が乱れる間に3塁まで進んでしまったのです。そして、チームメイトの犠牲フライでホームイン。飯島秀雄は、初盗塁でサヨナラ勝ちの立役者となったのでした。

117試合すべてを「塁上から出場」

117試合すべてを「塁上から出場」

しかし、その後は徹底的にマークされてしまい、なかなか盗塁数を重ねることができず、1年目は10盗塁、2年目は12盗塁、3年目は6試合出場で盗塁1となり、プロ野球人生をわずか3年間で終えました。ただ、飯島秀雄が塁に出たときは、ピッチャーにプレッシャーがかかったのか、チームの士気があがったのか、チームの打率が4割を超えるという記録が残っています。「代走屋」と呼ばれ、117試合すべてを塁上から出場した飯島秀雄のような選手は、今後もなかなか現れないでしょう。